坂町の伝承芸能の由来と秋祭りのセレモニー
坂町は地形的に周囲が高い山と海によって隔てられていたため、昔は、他の村との交流が少なく、いきおい周囲から孤立したなかで、発展生成して来たが、江戸時代中期になり人口の増加に伴い、狭隘(きょうあい)な村内の生産物だけでは生活が成り立たず、出稼ぎにでる人が多かった。
出先は主に京阪神、大和、四国、山陰、海上は対馬にまで及んだ。それらの人々が苦労しながら、仕事先で、あるいは旅の途中でそれぞれ習得した芸能文化を持ち帰り、村中の各所に芸能の座を造り、お互いに研鑚、改良を重ね、独特のものを造り上げた。その集大成が各地区から奉納する秋祭りの寄進行事であると言われている。
曳船は大阪の住吉神社奉納の曳船がヒントであり、屋台は祇園祭りの山車から、頂載(ちょうさい)は車切から、獅子舞は京の御囃子からの、それぞれ工夫改良の所産であるという。
秋祭り最大のセレモニーは曳船が神社拝殿に船首を突っ込み、寄進の行事をした後、石段を降り、曳船を先頭に森浜の屋台、浜宮の頂載、中村の屋台、刎条の頂載、西側の獅子、上条の獅子が五十段の石段を順次舞い降り、最後に御輿が整然と列をつくって、大幟が立ち並ぶ参道馬場から石段まで並び揃ったときが祭りのクライマックスである。
これらの高尚、優雅、あるいは勇壮、活達な寄進行事は相互が調和の妙を得て、豪華絢爛の絵巻であるが、江戸時代中期以降、我々の先祖がそれぞれの地区の村山から木を切り出し、費用をねん出し、あるいは貴い浄財を出し合い、知恵を絞りあって造った独特の伝承文化で、今後とも誇りとしたいものの一つである。
名称 地区名曳船 横浜地区 こども曳船 横浜地区 獅子舞 上条地区、西側地区 頂載 刎条地区、浜宮地区 屋台 森浜地区、中村地区 小屋浦の秋祭り 小屋浦地区 亥の子祭り 亥の子神楽 刎条地区、中村地区
【曳船(ひきふね)】
武具やのぼり、吹流し等で勇ましく飾った軍の御座舟「神宝丸」の船体は約700キロ。揃いの法被姿の若者によって担がれ、練り歩く。見物は石段の昇り降りと、揉み(荒波にもまれる舟のように揺らす)。そして曳船が神社拝殿に船首を突っ込むとき祭りは最高潮に。
【こども曳船(ひきふね)】
曳船のあとに続く子供曳船も親舟に負けじと横浜小学校の5年、6年生たちが担ぎ練り歩きます。
【獅子舞(ししまい)】
前:西側地区 後:上条地区
寄進物の中では最も古いと言われる獅子舞。両脇に横笛、後ろに太鼓打ちとジャン打ちの稚児を従え、右手に神楽鈴左手に御幣を掲げて50段の石段を格調高く優雅に舞い降ります。
【頂載(ちょうさい)刎条地区】
起源は明確ではないが、文政時代にはすでに寄進されていたという頂載。祭りの前日の夜(宵頃=よごろ)でも揉まれます。祭りの当日は前夜に増して激しく揉まれ、50段の石段を何度も昇り降りします。
【頂載(ちょうさい)浜宮地区】
頂載(ちょうさい)は荒っぽさが見ものです。伊勢音頭で間を整え、威勢良く一気に揉むはぎれの良さが特徴で、高く宙に掲げて投げ落としたり、左右に何度も激しく揺らします。それでも頂載に乗っている4人の子供は、泣き面でひたすら太鼓をたたきます。
【屋台】
森浜地区と中村地区で奉納されている。京都の祇園祭の山車のように太い綱をもって馬場道(参道)いっぱいに引き歩くものである。昔は宵祭には二台の屋台が曲や音色をお囃しとともに競い合い、屋台狂言が行われていたが今はない。
【小屋浦の秋祭り】
小屋浦の祭りの頂載は矢野村(現在の広島市安芸区矢野)から譲り受けた喧嘩用の頂載を余りにも重いので、これを小さくして今の姿にした。
この祭りは小屋浦地区内が一体となって、頂載・御輿・俵・巫女舞・神祇・獅子舞等があり、宵頃には鬼やシャギリが地区内をかけめぐり、頂載は急な石段を勇壮にかつぎ上げ、本祭には、頂載と俵が揉み合い、にぎやかに祭りを盛り上げる。
【亥の子祭り】
奈良・平安時代に起源をもつ亥の子祭りは、豊作を祝い、イノシシにあやかって子孫繁栄を祈願して、旧暦10月の亥の日に行われます。
日中に各戸の前で幾本もの縄がついた亥の子石で地面を打ってまわる、地固め行事は広島県全域でみられます。
【亥の子神楽】
亥の子神楽は約200年前から行われている伝統芸能で、昔は各地区で行われていましたが、坂町では現在、刎条地区と中村地区の2地区の保存会によって、地域ぐるみで守り、継承されています。平成30年には広島広域都市圏“神楽”まち起こし協議会に入会しました。
「刎条亥の子神楽保存会」では、幣舞・刀舞・刀舞・天の岩戸開き・薙刀舞・笹舞・鬼斬り・鯛釣りの8つの演目があり、「中村地区亥の子神楽保存会」の演目は、岩戸舞・弓舞・綱舞・鬼斬り舞・鯛釣り舞の5景です。